荒井由実と松任谷由実、ふたりのユーミン


第3作『コバルト・アワー』1975年 東芝
 新型コロナ感染拡大期に、我が家でも多くの食品を生協からとることにしました。
 冷凍食品、冷蔵食品などを消毒用エタノールで拭き上げ、玄関にいったん並べては妻のいる台所に運びます。現在も続けているその作業の所要時間は、およそ40分。ちょうどLPレコード1枚分です。

 作業中のBGMには様々なものを使いましたが、ヘヴィ・ローテーションになっているのは、元気になりたいとき用のビートルズの後期の作品と、深く落ち着いた気持ちになりたいとき用の荒井由実の最初の3枚です。
 今日も、ユーミンの3枚目『コバルト・アワー』をかけたあと、おまけとして結婚して松任谷姓となったあとの1981年の「スラバヤ通りの妹へ」をかけました。
 思惑通りに「この曲なあに?」と妻が声をかけてくれて、通釈が始まってしまったのです。


第1作『ひこうき雲』1973年 東芝

第2作『ミスリム』1974年 東芝
 大学2年の時、友人と彼の女友達の家に遊びに行ったら、その彼女が「由実がいい音楽つくったわ」という話をしていました。ユーミン、荒井由実のことでした。高校が一緒だったそうです。
 実は、わたし、ユーミンと同い年なのです。
 彼女の音楽に、同じ世代の感性として巡り合えたことはつくづく幸せでした。特に最初の3枚。『ひこうき雲』1973、『ミスリム』1974、『コバルト・アワー』1975。
 フランスの素敵な歌手フランソワーズ・アルディもユーミンから教えてもらったし、口紅を「ルージュ」と言うなんて、訳もなくドキドキしていました。
 もちろん、「ソーダ水の中を貨物船が通る……小さな泡も恋のように消えていった」(注1)というあまりにも素晴らしい歌詞の「海を見ていた午後」に出てくる横浜・山手のドルフィンへも(前を通っただけですが)行きました。
 彼女の音楽にはヨーロッパ教会音楽やブリティッシュ・ロックの流れをくむ手の込んだ構成の上に、知的な翳りのある雰囲気が漂い、それまでの日本的情緒を持つ60年代の音楽とは全く切れているものでした。
 そこに、アメリカ南部や西海岸のいなたい雰囲気を持つグループ、「キャラメル・ママ」(注2)がバックを支え、その異化作用がたとえようもない生き生きとした清冽な音楽をつくりました。
 いままで聴いたことのない、70年代に青春期を迎える僕らのための初めての音楽と思ったものです。
 ここから大貫妙子、矢野顕子、中島みゆき、尾崎亜美ら多くの女性シンガー・ソングライターが生まれてくるわけです。

 それにしても、ユーミンの音楽を聴くたびにやってくる「胸キュン」はいったい何でしょう。
 評論家の渡辺亨氏はユーミンの曲は「男の中の乙女心をくすぐる」という言葉を発したが、良くわかります。
 僕は、ユーミンの初期の音楽には、私はこれから傷ついていってしまうというおののきと、それによって私は、私として成長していくのだという希望と、その私を「世界」は見守ってくれるという安らぎが同時にあるように思います。
 だから、歌が天へ突き抜けていきます。
 が、荒井由実から松任谷由実になってからは、地上のことを歌うことが多くなりました。地上の幸福を知ってしまったがために、聖なる世界へ翔べなくなった天使になったのかもしれません。


『水の中のASIAへ』1981年 東芝
 彼女が、地上のことを歌うようになってしまう、その瞬間に一つの可能性を見せてくれたことがありました。
 それが、『水の中のASIAへ』収録の「スラバヤ通りの妹へ」です。インドネシアの首都ジャカルタで出会った少女に語りかけていきます。
 日本がODAのひも付き援助などにより、東南アジアへの経済侵略を強めていたころ1981年の作品。

 「妹みたいね 15のあなた
 髪を束ね 前を歩いてく
 かごの鳩や不思議な果物に
 埋もれそうな朝の市場
 
 やせた年寄りは責めるように
 わたしと日本に目をそむける
 でも RASA SAYANG GEH
 そのつぎを教えてよ
 少しの英語だけがあなたとの
 架け橋なら淋しいから RASA SAYANG GEH……」

 15歳の少女に見立てたアジアの人たちの心に近づきたいのだけれど、戦争時の侵略を思い、さらに現在の経済侵略が人びとの心をどれだけ傷つけているだろうかと考えると素直に近づくことが出来ない、その戸惑い。
 その切ないもどかしさが、それまでの歌の対象として多かった恋愛相手ではなく、世界の人びとへと転換していこうとするタイミングが実にスリリングでした。

 ユーミンはこのとき、世界に対する日本の意味を透徹した眼差しでとらえていたと思うのです。
 この路線は非常に高い評価を受けますが(注3)、この1作で手放され、彼女はこののち若い女性たちに圧倒的な影響力を持つ「恋愛教の教祖」とも呼ばれるようになっていきます。

 「世界」の中で自分たちの利害ゆえでなく、全体とのつながりの直感ゆえに、果たすべき役割を果たしていこうとする眼差しを内包している音楽を、今こそ聴きたいと思います。
 新しい人たちも出てくるでしょう、同時に、もうすぐ古希を迎えようとする僕らの世代のユーミンにこそ、まだまだ期待しているワタクシです。

2023.9.22 

(注1)「恋も泡のように消えていった」とは言わないんです。『枕草子』の「冬はつとめて」のように、自然現象・花鳥風月だけを語ることによって、忍ばせていた情感を滲ませていくという、日本文化の粋です。
(注2) 細野晴臣、鈴木茂、林立夫、そしてのちに夫となる松任谷正隆がメンバーでした。
(注3) このアルバムは第23回日本レコード大賞ベストアルバム賞を受賞しました。