人々の悲しみを引き受けるアラブの歌姫

 なぜ、こんなにファイルーズに惹かれるのでしょう。
 「ビロードのよう」と称された声の柔らかい響き、浮遊する節回しが運ぶ深い余韻と哀感、人々の心を包み込むかのような優しさ。
 いまCD棚を見ても、彼女のものだけで40枚は並んでいます。ファイルーズの作品と見ると、とにかく手に入れたくなってしまいます。
 ファイルーズは1935年生まれ、現在88歳の中東レバノンの大歌手。ファイルーズこそ現在のアラブ世界の頂点にいるスーパー・スターであり、アラブ世界でその名を知らぬ人はいません。
 と同時に、世界の歌手の頂点でもあります。現在の世界を見回してもこれほどの歌手はいません。「アラブ歌謡の女神」とも呼ばれていますが、世界の音楽ファンにとっての宝でもあります。ぜひ多くの人に聴いてもらいたいと思います。

CD『BEBALEE』2017CD『BEBALEE』2017
 そのファイルーズは2017年82歳の時に通算100作目、いまのところの最新作『BEBALEE』を出しました。それはキャリア上初めての欧米の有名曲のカヴァー集でした。
 その中で「マイ・ウェイ」を取り上げています。
 フランク・シナトラを始めとして、この曲を歌う時は、自分の人生を振り返って、誇らし気に力強く歌われることが多いです。
 ところがここでのファイルーズはか細く、むしろ弱々しく歌っています。それが愛おしく聴こえるほどです。大歌手として自分をアピールするところなど、全くありません。
 それを音楽評論家・荻原和也氏は、彼女がアラブを代表する歌手として、アラブ世界が混乱と悲しみの中にある責任を一身に引き受けてきた重みゆえではないかと語りました。(注1)それはどういう意味でしょうか。

 レバノンは、地中海に面し、北はシリア、東にヨルダン、南はイスラエルと接しています。が、もともと「レバノン」という国はありませんでした。
 かつては古代フェニキアと呼ばれ、ローマと戦ったハンニバル将軍で有名なカルタゴやバルセロナなど地中海沿岸に植民地を持つ交易国でした。
 その後、新バビロニア、ペルシア王国、アレクサンドロスの帝国などの支配を受け、 紀元前4世紀にはローマ帝国の領土となり、7世紀にはイスラム帝国に組み込まれます。
 セルジュク・トルコ、エジプトによる領有をへて、17世紀にはオスマン・トルコ帝国領となりました。

 そのトルコが敗北した第1次世界大戦後、トルコ分割を図ったフランスによって、現在のようなレバノン国境となりました。フランスが統治しやすいよう、レバノン山地はシリアから切り離されてレバノンに組み込まれ、キリスト教マロン派、イスラム教スンニ派、シーア派など、民族・宗教が複雑に構成されて、今に至る内戦の要因となっていきました。
 第2次世界大戦後のレバノンは経済を急成長させ、首都ベイルートは中東経済の中心地となります。地中海有数の国際的リゾート地として賑わい、「中東のパリ」と呼ばれたのは僕も覚えています。
 しかし、中東戦争に伴うPLO(パレスチナ解放機構)の流入によって国内の宗派間のバランスが崩れ、1975年にイスラム教徒とキリスト教マロン派の間の衝突から内戦が勃発しました。
 ミサイル攻撃されるベイルートに取り残された障がいを持つ子どもたちを、マザー・テレサが救出しようとしたのはこの時のことです。

 その後シリアが進駐、1978年にはイスラエルが侵攻、そこに周辺諸国やアメリカ・ソ連などの思惑も入り乱れ、断続的に紛争が続き、国土は著しく荒廃、「中東のパリ」の栄華は失われました。2006年のイスラエルによる侵攻と撤退以降、経済的回復を進めようとしていますが、各宗派間の亀裂と憎しみは深いです。

DVD『愛しきベイルート』アップリンク 2003DVD『愛しきベイルート』アップリンク 2003

 その、分断され傷ついた民衆の心の拠り所となったのがファイルーズです。
 CDと同じタイトルの『愛しきベイルート』というドキュメンタリー映画があります。
 市井に生きる人びとの生活の様子を追いながら「ファイルーズ」とは自分にとって何なのかというインタヴューを軸にして、バックにはファイルーズの歌が流れていく素晴らしい作品。
 PLOと戦ったキリスト教徒のタクシー運転手は、生活の苦しさについてイスラム教徒を批判しながら、ファイルーズを讃えます。
 1948年から住むイスラム教徒パレスチナ人はシリアの刑務所に入れられた時に「ファイルーズを聴かせてくれ」と頼んだとインタヴューに答えます。
 流れる曲のタイトルは「レバノンの土に私を植えてちょうだい」「愛しきレバノン」「最高に輝く街」そして「いつの日か故郷に帰る」。
 誰もが、他宗教や他の政治勢力を非難しても、ファイルーズだけはこよなく愛していました。

 こう言った人がいました。
 「内戦があっても、彼女は決して片側につかずに歌った。
 出国するお金はあったのに、恐怖と隣り合わせにレバノンに居続けることを選び、共に悲劇を味わったんだ」
 ある女性は語りました。
 「ファイルーズは空気のようにいつも一緒にいた。母親代わりだった」
 「彼女の中には、純粋に祈る姿があるわ」

 そう、ファイルーズは全レバノンの人びとの心と一体となって歌うことが出来ました。
 ファイルーズは1935年11月21日生まれ、本名はヌハード・ハッダード。キリスト教徒。
 父は貧しい印刷工でした。小学校のときから「学校で一番美しい声を持つ女の子」と評価され、音楽教師に推されて国立音楽学校に進学、アラブ音楽の基盤であるコーランの詠唱を教え込まれます。

 1949年からラジオで活動を始め、歌手としてデビュー、「ファイルーズ」という芸名が与えられます。「ファイルーズ」とは「トルコ石」を意味します。
 若手プロデューサー、アーシー・ラハバーニと結婚、彼と弟のマンスールが作る曲にのって、「ファイルーズ」のアラブ世界における人気は不動のものとなりました。

CD『愛しきベイルート』1987CD『愛しきベイルート』1987

 そのファイルーズが1987年(録音は1983年)に発表したのが MAARIFTI FEEK(邦題『愛しきベイルート』)。
 息子ジアードのプロデュースのもと、アラブ歌謡の枠を超えた、ムードのあるジャズっぽさ、もとフランス領であったことを思い出させるシャンソンのテイストをまぶした都会的で洗練された音楽は僕らにも聴きやすいですが、本質はアラブ歌謡そのもの。
 この作品の中でファイルーズは、ジャズ・トランペット奏者マイルス・デイヴィスの演奏で有名となったスペインの作曲家ホアキン・ロドリーゴ(1901~1999)の「アランフェス協奏曲」を取り上げ、詞を付け、曲名「愛しきベイルート」として歌いました。(注2)

 「ベイルートよ 心から平和がお前の上にあらんことを
 古い町並みや港 そこに住む人びと そして彼らの心
 それらは火と硝煙に消えていった
 ベイルートに平和が戻らんことを
 ベイルートよ 私の許に戻っておくれ」

 冒頭の「ベイルートよ」という声を聴いただけで、金しばり状態になり、涙が溢れます。これほど深い情感を湛えた歌が他にあるだろうかと思います。
 ロドリーゴがこの曲を作ったのは1939年、1936年からのスペイン内戦によって活動の場を海外に移さざるを得なかったロドリーゴが、争いの場となったスペインの平和への想いを込めたと言われています。

 ファイルーズの憂いを帯びながら強靭さも持つ歌声は、レバノンの人びとを苦しめる内戦の哀しみと、平和への祈りに溢れ、聴き手の心を揺さぶらずにはおきません。(注3)

2024.1.26

(注1)bunboniブログ
(注2)マイルス・デイヴィスの演奏は『スケッチス・オヴ・スペイン』1960 に収録されています。
(注3)You tube でも聴けます。
 https://www.youtube.com/watch?v=8ayX6ZSpBgg
 https://www.youtube.com/watch?v=u0xLvBEOPm0