壁を壊し続けたロック・スターをドイツ外務省も称えました

『ヒーローズ』RCA 1977『ヒーローズ』RCA 1977

 1月10日はイギリス出身のロック歌手デヴィッド・ボウイの命日です。(注1)
 彼の作品の中から1977年の『ヒーローズ』Heroes を聴いて、彼の活動を偲びました。

 宝石商だった父の跡を継ぐために、大学を卒業してカリフォルニアのサンタ・モニカにある米国宝石学会の宝石鑑定士コースに留学したのが1976~77年にかけてのことでした。(注2)
 ここで、僕より少し年下のクレイグという白人青年と友達になりました。
 彼は、オレゴン州立大学のあるオレゴン州ユージーンの宝石商の息子で、とても気持ちのいいアメリカ・インテリ青年でした。朗らかで精神も安定していました。
 彼は僕が音楽好きだと知ると、推薦するレコードのリストを作ってくれました。思い出すままに書き出すと、こんな感じだったと思います。

Pink Floyd ピンク・フロイド 『Wish you were here』
Led Zeppelin レッド・ツェッペリン 『Ⅳ』
Genesis ジェネシス 『The lamb lies down on broadway』
King Crimson キング・クリムゾン 『Lark`s tongue in aspic』

Eno イーノ 『Another green world』
David Bowie デヴィッド・ボウイ 『Low』
Nico ニコ 『The end』
Joni Mitchell ジョニ・ミッチェル 『Hejira』
Gong ゴング 『You』
Robert Wyatt ロバート・ワイアット 『Ruth is stranger than Richard』
Quiet Sun クワイエット・サン 『Mainstream』

Bob Marley ボブ・マーリー 『Catch a fire』
Max Romeo マックス・ロミオ 『War in a Babylon』
Peter Tosh ピーター・トッシュ 『Equal rights』
Mike Oldfield マイク・オールドフィールド 『Ommadawn』

 当時の日本ではほとんど聴いたことのないものばかり。ジャマイカのレゲエ以外はイギリスのプログレ、その中でもカンタベリ派と呼ばれる音楽が多い。
 ロック好きの白人青年が、行くところまで行ったら、こういう最先鋭の音楽になるのかというのは、今ならばちょっと理解できます。
 サンセット通りにあったタワーレコード に行って、レコードを探してもらおうと店のお兄さんにこのリストを見せたら、「 Wow,heavy! 」と言って驚かれたのを覚えています。

『ロウ』RCA 1977『ロウ』RCA 1977
 当時、既にジャズの最先端のバリバリのフリー・ジャズまで聴いていましたから、これらの音楽も何とか聴きこんでいったのですが、最も重くて当時の僕には手に負えなかったのがデヴィッド・ボウイのLowでした。1976年までボウイは「白人はいかに黒人音楽のソウルフルさに近づけるか」という命題のもと、カリフォルニアに移り住んで、『ヤング・アメリカンズ』を発表、極上の白人ファンクである「フェイム」を全米NO.1ヒットに送り込んでいます。
 しかし、ヨーロッパ人としてのアイデンティティを意識したボウイは「ロサンゼルスでは、僕はダメになる」と翌1977年に西ベルリンへ移住、発表されたのがLowでした。
 ニューウェイヴの先駆だとのちに高く評価されたA面は、重く引きずるようなビートと神経を逆なでするような屈曲するメロディの短めの曲が続きます。なんとも近未来的で無機的で、確かにドアを開けるとテクノやパンクを含むニューウェイヴがもう立っている気がします。
 B面は1曲目のWarszawaを筆頭に、シンセを使ってゆったりとした、不穏さと不吉さを感じさせるインストが続きます。とてもミニマルで、ブルガリアの合唱を思わせるところもあります。
 これはもう、西欧文明の終焉を描いているとしか思いようがありません。異形の傑作です。
 それは今だから言えることで、それにしても日本も含め、世界中にディスコ・ブームが巻き起こるきっかけとなった映画『サタデー・ナイト・フィーバー』が大ヒットしたのが同じ1977年のことですよ。あまりにもボウイは早い。

 そして、わずか9か月のインターヴァルで、続けて発表されたのが Heroes(注3)でした。
 このHeroesはLowよりはメリハリのついた、よりロック色の強いものとなっています。そのA面3曲目にタイトル曲は位置されました。
 盟友ブライアン・イーノの弾くシンセサイザーが、まるでインド音楽におけるタンブーラのような陶酔的なドローン効果を作り出し、キング・クリムゾンのロバート・フィリップのギターがノイジーで、スペイシーな響きを作っています。ボウイのヴォーカルは荘厳な面持ちを持ち、煽情的でありながら、非常な崇高さも漂わせています。

 「ぼくは 王にもなれる 君は 女王にもなれる
 何も ぼくらを切り離すことはできない
 一日だけなら ぼくらはヒーローになれる

 覚えている 壁の側に立っていたら 銃弾が僕らの頭をかすめた
 ぼくらはキスをした 恥ずべきことは 向こう側にある・・」

 だいたいボウイは、1967年、20歳でデビュー・アルバムを発表したころには既にチベット仏教に傾倒、チベット難民救済活動も行っています。
 山本寛斎の衣装を好んで着用、坂東玉三郎から歌舞伎の化粧法を学び、京都に憧れ続けるなど、相当早くから、彼の視線は「脱西欧化」に向いていました。
 さらに、1970年ごろには「性」の持つ精神的な壁を越え、1972年には環境悪化が進む地球を救うためにやって来た異星人を描いた映画『地球に落ちてきた男』に主演するほどでしたから、一つの国の分断を象徴する、物理的な「ベルリンの壁」に感応しないはずはなかったと思います。

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 1987年当時、切迫した欧州情勢を受けて、ベルリンはかつてない緊張状態にありました。
 6月6日、ベルリンの壁のすぐ西側、ブランデンブルグ門にも近い共和国広場でボウイは野外コンサートを開きます。
 ステージは壁を背にする位置にありましたが、さらに全スピーカーの1/4が観衆とは反対側の東ベルリンに向けても置かれていました。
 壁の向こうにはボウイの音楽を聴こうと東ドイツの若者たちがライヴの数時間も前から集まっていました。
 市民がひそかに回していたカメラフィルムには、秘密警察シュタージらしき人物も映っていました。恐怖が支配する東ドイツでは、いつもなら監視の目を恐れて人々はすぐに引き上げるはずでしたが、この時は違っていたのです。
 数人の若者たちが叫んだ驚くべき言葉をカメラはとらえています。
 「ここから出せ!」「俺を出してくれ!この野郎!」
 東ドイツの人々が表立って権力に逆らうのは前代未聞のことでした。

 そして、Heroes。
 「壁の側に立っていたら、銃弾が僕らの頭をかすめた」
の部分が凄い音量で聞こえます。5000人の若者たちは騒然として、こぶしを突き上げて応えました。
 15歳の若者はこう語りました。
 「それはまるで、禁断の果実を味わっているかのようだった。この出来事は、僕たちの状況を変えるために起きているのだと、みんな直感的に分かっていたんだ」

 ボウイは「壁の反対側にいる私たちすべての友人たちに願いを送ります」と語ってこの曲を歌いました。聴いた東ベルリンの若者たちは「とてつもないエネルギーを与えられた」とのちに語りました。
 この人々のエネルギーが爆発寸前まで凝縮されていく奇跡のような時間は、NHK監修『新・映像の世紀』で見ることができます。
 そしてエネルギーは爆発します。2年後の1989年11月9日、ベルリンの壁崩壊。

 2016年1月10日、新作『ブラック・スター』を69歳の誕生日に発表したわずか2日後にボウイは肝臓がんのため死去。
 ドイツ外務省はツイートで
 「さようなら、デヴィッド・ボウイ。
 あなたは今、『ヒーローズ』の一員になりました。
 壁の崩壊に力を貸してくれてありがとう」
と述べました。(注4)

2024.1.12

(注1)デヴィッド・ボウイ(1947.1.8~2016.1.10)
(注2)私事ですが、結局は宝石商は継がずに中学社会科教師になります。
(注3)このジャケット写真は、日本の写真家・鋤田正義氏によるものです。
(注4)ドイツ外務省 https://x.com/GermanyDiplo/status/686498183669743616?s=20