「憲法」と聞くとどんなことを思いますか?
んー、何か難しそう。法律の中で最高のものというのは分かるけど。
そんなこと考える暇ないなあ、明日の仕事をどうするかで精一杯。
そんなこと言う人、きっと真面目な人なんだろうな、ちょっと話しづらいかも。
どうしても、私たちの日常の生活とは離れたところにあるものと思いますよね。
でも、「憲法」の意味は、「日々の生活の中でこそ、一人一人のかけがえのなさを本当に大切にしよう!」ということなんです。その宣言そのものです。
「憲法」のことを考えるために、まず能登半島地震のことから考えてみたいと思います。
元旦に起きた能登半島地震から2か月がたった今も、まだ1万人を超える人々が避難所生活をしています。
体育館の床に直接布団を敷いて雑魚寝です。プライバシーもなく、人数の多さにトイレも使えなくなり、風呂も入れないところがほとんどだそうです。
温かい食事をとれることも少なく、震災関連死が心配されています。
2011年の東日本大震災以降、熊本地震、西日本豪雨災害と災害が起きるたびに同じように見てきた風景です。この間、災害対策は一体どれほど進んできたのでしょう。
例えば、日本と同じような災害大国イタリアでは、体育館を避難所にするということはあり得ません。
すぐに1世帯ごとにテントを設営し、プライバシーを守り、かつ皆が集まれる食堂をつくります。そこでは温かいメニューも用意されます。水洗トイレもすぐに準備します。
自らも被災した石川県珠洲市のタクシー会社の運転手は、すぐにただ一人営業に復帰したそうです。足を必要とする人たちのために「いつでも呼んでください。どこも逃げんとおるさかい」とおっしゃったと新聞に載っていました。
また、避難所で生活していた小中学校の給食調理員の女性が、がれきの中から使える炊飯器を見つけ、みなに呼び掛けて、500人分の温かい食事をつくり続けたという記事もありました。
ご自身も大変でしょうに、その中で皆のために自分のできることをしようというそのお心が、私たちにとっての何よりの希望です。
でも、政府はどうでしょうか。
新型コロナ感染症が猛威を振るっているころ、政府から、感染症を含めた災害に対処するときの心構えとして「自助・共助・公助」という言葉が出てきました。それは、それまで経済効率を考えて病院を減らしていったつけで、コロナ感染者の入院を受け入れることができず、自宅療養を促すことになった時のことです。自分の身は、自分で守って下さいと言ったわけですね。
今回もすぐに、この「自助・共助・公助」という言葉が出てきました。
これは私たち国民の側が言うのならまだ許せますが、「公助」の担い手である政府・自治体が言い始めると「国がやれることは限られているので、あとは皆さんの力で、助け合ってくださいね」と言っているように聞こえます。それは政府の責任を放棄している憲法違反だと言われても仕方ありません。
憲法の条文は全部で103条もあります。
そのうち、第25条は「生存権・国の社会的使命」と言われているものです。その条文は以下のようになっています。
「すべて国民は、健康で文化的な、最低限度の生活を営む権利を有する」
近代以降、人々の自由な経済活動が活発になったとともに、貧困や失業により人間らしい生活を送ることができなくなった人々が多く出てきました。それは、個人の責任とは言えない社会的な問題です。
そのときに、人は、人間らしい生活に必要な条件を用意し、満たすことを国(政府)に請求できる、としました。それを「生存権」と言います。(注1)
この条文は、国はそこまで必ず到達しなければならないという必達目標を言っています。そこを目指して頑張りましょうという努力目標ではありません。
到達していなければ憲法違反になるものなのです。
中学社会科では、このような憲法の本質を考えるために漫画『ベルサイユのばら』を使います。
2024.2.9