伝統へのリスペクトに溢れるボサ・ノヴァの魅力

 90年代後半のある日、吉祥寺の中古レコード店で1枚のブラジル女性歌手のCDを買いました。名前はシルヴィア・テリスSylvia Telles。家に帰って聴いて、驚きました。
 美しいピアノや弦をバックにスローな歌を、言葉を大切に丁寧に歌っていますが、繊細で都会的なセンス、そして何よりも情感が溢れ出てしまうギリギリのところで抑制しているかのような切なさが凄い。
 一発でハートを鷲掴みにされ、とろけました。
 調べると、ボサ・ノヴァ興隆期の最高の歌姫だったことが分かりました。そして、何と1966年32歳の若さで交通事故死(泣)。
 このCDは初々しい第1作1957年と第3作1959年を2イン1にしたお徳用盤。以来彼女のレコード、CDを買い集め、今でも自分の中では最愛のブラジル歌手です。

 ボサ・ノヴァの最高の名盤と言ったら、今に至るまで『ジョアン・ジルベルトの伝説』です。
 ボサ・ノヴァのスタートを告げたジョアン・ジルベルトの最初の3枚のLPを3イン1にしたCDで1958年~61年録音の歴史的作品です。
 ここに収録されている「デサフィナ―ド」「ワン・ノート・サンバ」「想いあふれて」などは、誰もがどこかで一度は聴いたことがあると思います。
 アントニオ・カルロス・ジョビン作曲の柔らかでかつ覚醒感のある曲を、ジョアン・ジルベルトがクールに語るように歌います。そして彼が弾くギターのシンプルなのに抜群のノリ。すべてのボサ・ノヴァ・ギターがここから始まりました。
 どの曲もシャキッと2分で終わります。LP3枚分ですから38曲も収められているのですが、もっともっと聴きたくなる!

 そして、そのボサ・ノヴァ誕生の瞬間とその波紋を再現してくれるのが『ボサ・ノーヴァ物語 青春篇』です。
 ジルベルトのほか、エリゼッチ・カルドーゾ、バーデン・パウエル、マルコス・ヴァリらによる珠玉の名曲がずらり。もちろん、アントニオ・カルロス・ジョビンがシルヴィア・テリスのことを曲にした抒情の名曲「ジンジ」もシルヴィア本人の歌唱で入っていますよ。
 こちらも大のおすすめ。

 ブラジルは世界でも有数の音楽大国です。
 かつての宗主国ポルトガルの影響を受けて19世紀末には生まれていた、洗練が素晴らしい器楽音楽・ショーロから始まって、リオ・デ・ジャネイロの裏山のスラム街の共同体から生み出され続ける、おじいちゃんたちが歌うサンバ、爽やかで陰影に富むボサ・ノヴァ、そして実験性とともに歌心を忘れぬ、MPBと呼ばれる現在のポピュラー音楽まで、どれもがとても豊か。
 ミュージック・マガジン誌の毎月のディスク評は「ロック」「ジャズ」「ソウル」「ラップ」「ワールド・ミュージック」など普通にジャンル別に分かれていますが、ただ一つ国別の音楽として「ブラジル」というジャンル分けがあるほどです。

 音楽評論家の中村とうよう氏は語ります。
 第2次世界大戦後の10年間、ブラジルは政治的なごたごたが続いていました。
 1955年に就任したクビチュック大統領は工業化政策を進め、新首都ブラジリアの建設など高度成長を目指しますがインフレを招いて社会は混乱、ストライキも頻発。
 そのあと1964年にクーデターが起こり、ブラジルは軍事政権となります。
 このバブル時代に入りかけた1950年代後半にボサ・ノヴァは誕生しました。バブル期は社会の歪みが増大し、貧富の格差を拡大させながら、日本でもそうであったように中産階級を育てます。

 ボサ・ノヴァを生み出したリオ・デ・ジャネイロは山側にはファベーラという最も底辺の人々が住む黒人スラム街が並び、南側の海岸沿いには金持ちが住み、岩山によって棲み分けができていました。生活費の安いファベーラから高級住宅街や観光の中心地に稼ぎに行くのにも時間も交通費もかかりません。
 そんな貧富混在のリオの隙間から、豊かなニュアンスを持つボサ・ノヴァという音楽は生まれてきました。
 時代は下がりますが、同じバブル期でも、均一性の高い日本では表面をなぞるだけのような音楽しか作れなかったのとは対照的でした…。

 ジルベルトもジョビンも中産階級の白人の若者ですが、彼らがつくるボサ・ノヴァの持つ「あたたかく涼(すず)やかな視線」(by 田中勝則氏)とは、スラム街の黒人たちがつくったサンバの伝統へのリスペクトの気持ちと、その伝統を受け継いでいるという誇りに他ならないと思います。
 この夏はボサ・ノヴァを聴きながら、サンバから始まる音楽の底流に、どれほど、厳しい環境にある同胞を支えたいという願いが息づいているかに思いを馳せてみるのはいかがでしょう。

2023.8.11 

(参考資料)『ヴィヴァ!ボサ・ノーヴァ』中村とうよう監修 (株)ミュージック・マガジン 1998年
「ミュージック・マガジン 1993年9月号」