中村哲さんが逝ってから、もうすぐ丸4年です。
2019年12月4日、ジャララバード・アフガニスタン。
直後の朝日歌壇には数百という歌が寄せられたそうです。(注1)
先生を返せ お前も井戸を掘れ 正しいことなら何故撃って逃げた 矢尾 米一
「悔しい」と ただそれだけを思い泣く 中村医師を識る人はみな 冬木 裕子
いまでも、この歌を読むと、涙が溢れます。
なぜ、あれだけの方が殺されなくてはならなかったのかと思います。
アフガニスタンで井戸を掘り、用水路を作り始めたころから、中学3年公民の「国際協力」の時間には中村さんのことをいつも取り上げてきました。
3学年の授業で教えてあげられない生徒たちには、学年全体の道徳の時間にずっと取り上げてきました。
アジアのノーベル賞と言われるマグサイサイ賞も受賞し、次のノーベル平和賞に一番近いのが中村哲さんだと生徒たちにも言ってきましたのに。
授業は岩波ブックレット『アフガニスタンで考える』と、2004年7月に放映されたNHK・ETV特集『戦乱と干ばつの大地から 中村哲』を使って行いました。その番組の内容は概略、次の通りです。
*
中村さんにとってアフガニスタンとの関わりは、一つの苦い思い出から始まりました。
1978年ヒンズークシ山脈の登山隊に医者として参加、途中病気に苦しむ村人から薬を求められましたが、手持ちの薬はわずかしかなく、与えることはできませんでした。
医者なのに人々を見捨てる自分とは何なのか、帰国後も問い続けます。
1984年中村さんは日本で勤めていた病院を辞め、アフガニスタンに隣接するパキスタン・ペシャワールに向かい、医療活動を開始します。
担当したのはハンセン病の患者でした。皮膚や神経が侵されるこの病気にかかった人は、当時社会から差別されていました。
「ほかに見る人がいませんので、大和魂が黙っとられんというとこでしょうね」
中村さんのもとにやってくる患者の多くは、アフガニスタンから難民となって逃れてきた人たちでした。
自分たちの村にも何とか診療に来てほしい、そう頼む人たちに応えて1991年、中村はアフガニスタンに巡回診療に向かいます。病院が少ない地域に住む人々をこれ以上放置することはできないとの思いからでした。
やっと着いた目的地の村では治療にやってくる人が後を絶ちませんでした。
この時、一回の訪問診療では救うことのできない人を何人も目にします。継続的な治療をすれば救える命、中村さんは診療所の開設を決意します。
同年ダラエヌール・アフガニスタンに最初の診療所を開設、無医村地帯に作られたただ一つのものでした。
運営資金は、中村さんの友人たちが設立したNGO団体が日本で集めた支援金によってまかなわれました。
診療所開設のうわさを聞きつけ、10キロ以上離れたとこからやってくる人々もいました。連日、大勢の患者で溢れていました。(映像は診療を待つ人びと30人ほど)
1996年、イスラム教を厳格に守るタリバンが国土のほとんどを掌握、内戦は沈静化し、中村さんの医療活動も比較的やりやすくなりました。
が、2000年の夏、異変が起きます。
診療所にやってくる深刻な症状の患者が急に増えたのです。
全身が皮膚炎に侵された子供、マラリアなどの感染症にかかった患者。かつてない患者の数でした。どんなに治療を繰り返しても、日ごとに患者は増え続けます。(映像は体温39.9℃の子ども)
なぜこんなことが起こるのか、中村さんには理解できませんでした。
「栄養状態が悪い、それから衛生状態が悪い。あれでも水で洗うだけで、かなり良くなるんですね。ちょっとした病気がきっかけになって、死ぬことが非常に多いですね、特に子どもの場合」
中村さんは患者たちの村に向かいました。そこは、緑の全くない一面の乾燥地でした。
「こりゃ、ひどいな」
井戸へと案内されました。一滴の水もありませんでした。
中村さんが診た様々な症状は、清潔な水さえあれば防げるものでした。
水が出る井戸はわずかで、そこに人々が殺到し、争いも起こりました。(映像:水をめぐって、取っ組み合いが始まる)
アフガニスタンの平原地帯に水をもたらしているのは、4000メートル級の山々に積もった雪です。しかし、一年を通して頂きにあった雪は、4月以降姿を消しました。
地球温暖化が原因だと言われています。
干ばつが進み、人々が村を捨て、難民化するのを防ぐために、何とか水を得るしかない。中村さんは井戸に注目しました。
「あそこ植物は全然生えていないですね。こんなところ、何個がバアーと作ったらどうですかね」
力を合わせて井戸を掘ろう。村の人々が集まりました。技術もなく、道具もない素人の集団です。
1本の井戸を掘るのに1か月以上かかりました。日本では20メートル掘れば出てくる水が、アフガニスタンでは50メートル以上掘らなければなりません。
硬い岩盤に阻まれたときには、内戦時代、戦車の爆破を繰り返してきた元ゲリラの兵士が、周辺に放置されている地雷や不発弾から火薬を取り出し、手際よく地下の固い岩盤を爆破してくれます。
掘り進めること地下60メートル、やっと水が姿を現しました。
元ゲリラ兵士は「井戸掘りの成功はアラーの神のお蔭です」と言いました。
(映像:水浴びをして喜ぶ子どもたち)
医療の枠を越えて、井戸掘りに取り組み、井戸は1000本を越えました。
そこに、さらなる悲劇が襲うきっかけとなったのは、2001年9月11日のことでした。(映像:ニューヨーク同時多発テロ)
アメリカは1か月後の10月7日、同時多発テロの首謀者とされるビン・ラディンと彼を匿うタリバンを攻撃するため、アフガニスタンに大規模な空爆を加えました。
中村さんたちも誤って攻撃されたり、井戸も多く破壊されました。
中村哲さんは20年にわたってアフガニスタンで積み上げてきたものの全てをかけて大きな挑戦をしようとします。
ある日、スタッフ150人を集めて、中村さんはその決意を語りました。
「我々の力のすべてをかけて、巨大な用水路を建設する」
「他人の力を借りずに、自分たちで挑戦するんだ」
この用水路建設は、3000ヘクタールの土地を潤すという壮大な計画です。建設にかかる費用は日本での募金によって賄われます。
中村さんは独学で土木工学、砂防学などの専門知識を学び、構想を練ってきました。
干ばつの中、水の流れを保つ数少ない川、クナール川。この川は源流を7000m級の氷河に持つため、干ばつが進んでも、水量は減っていませんでした。
この川の水を高台の干ばつ地帯に引き込むことが出来れば、乾いた大地に緑が戻り農業が復活し、10数万人分の食糧を生産することが出来るはずです。
工事は困難を極めました。
大きな問題となったのはクナール川の水位です。3月に入って水位が上がるまでに、水の取り入れ口を完成させなければなりません。
用水路建設で、最も重要な工事は水門作りです。精密さが要求される難しい工事です。
水をせき止める水門にはコンクリートが使用されます。しかし充分な設備が整っているわけではなく、思うようにははかどりません。
「時間ですね、ここが出来ない限り、水が流れないんで」
あるとき、建設中の水門付近が急に増水し始めました。
必死に土嚢を積み上げますが、水の流れは止まりません。とうとう建設中の水門に水が流れ込んでしまいました。
さらに流れ込んだ水は既に完成していた用水路の壁も崩壊させてしまいました。予想以上の水の圧力です。
度重なる失敗の連続。スタッフの顔にも疲労の色が濃くなりました。
翌朝、壊れた壁を現地の人々が率先して修復していました。石と土の工事は彼らの得意分野です。
様々な困難に見舞われながら、アフガニスタンの人々は誰一人あきらめませんでした。
「日本の人たちは一生懸命です。私たちも負けてはいられません」
「用水路が完成し、畑が復活するその日まで、あきらめません」
「こうやって、自分の国で働けるのは本当に嬉しい。この国を良くするのは私たち自身です」
全員が総出で作業に当たり、流れた水も徐々に取り除かれていきます。
2か月後、いよいよ水門の枠を外す日がやってきました。ついに水門が完成しました。
「いいですねー」「うまくいったね」
8か月にわたって600人のアフガニスタン人と10人の日本人がともに力を合わせた用水路建設。14㎞の工程の内、最初の2㎞が完成しました。
3月上旬、用水路に水を流し込む日がやってきました。乾いた地面を水がゆっくりと流れていきます。
「おーい、見にお出で」子どもたちに声をかける中村さん。
「いやー、感動しました」と日本人の若いスタッフ。
人々と共に悲しみ、怒り、そして喜びながら国際貢献の意味を問い続ける医師・中村哲さん。
戦乱の地でいのちが再び輝きを取り戻すそのときまで、アフガニスタンの大地に立ち続けます。
*
生徒の感想です。
「医者なのに、病院の中だけでなく、患者さんの生活を良くするために行動するというところが凄いと思いました。
用水路は水門も作らないといけないので、すごく大変そうでしたが、中村さんの想いに周りの人たちも応えたいと思ったのだと思います。
どんな人のまごころも信じるに値すると言っていました。中村さんはとても強い想いをもって人々を助けているのだと思いました」(中3 T.S女子)
「人を救いたいという気持ちがあると、どんなに危ない所にも行くことができるんだと感心しました。
『自分自身が助けないと』という強い意志が見ているだけでも伝わってきたし、1人が行動を始めた時から、あんなにもたくさんの井戸ができて感動しました。
新しいことに挑戦する姿や人のために尽くしていく姿はかっこいいと思ったし、どんなに厳しい状況に置かれていても住民の人たちには諦めるような姿が見られないのでびっくりしました。特に最後に用水路に水が流れていく様子には涙が出そうでした。
私も頑張ろうと勇気をもらいました」(中3 S.Y女子)
「中村さんの職業は医師なのに、『人を助ける』という点で、ただ症状を見るだけでなく病気になる原因を探り、人々の生活を豊かにしようと奮闘されていることが素晴らしいです。
中村さんは本当に相手の立場になって考えることができる、思いやりのある方なんだと思いました。
今の世界に必要な人は中村さんのような人です。
自国が良ければいいとか、自国を良くするために他国から利益を奪い取るということがあるから、世界がうまく結びついていないのだと思います。
相手のことを思いやって、支え合う関係を築くためには、人々が中村さんのような考えや思いを抱いていかなければいけないのではないかと思いました」(中3 O.A女子)
この番組に未公開映像・最新映像を加えた劇場版『荒野に希望の灯をともす』が2022年7月に公開されました。予告編を見るだけでも素晴らしいです。
その映像を見ると、水路の護岸に植えられた柳の木は青々と茂り、成長が早い根が蛇カゴの石を包み込み、水の圧力から水路を守っています。川の中には様々な魚が泳いでいます。
現在、荒れ果てていた土地に2万3800haの緑の耕作地が生まれ、65万人の人々の生活が営まれるようになりました。
村人が語ります。
「緑が戻ってきたので、一族で帰ることが出来ました。お腹いっぱいになれば、みんな戦争のことは考えませんよ」
武器ではなく、つるはしでアフガニスタン人の暮らしを立て直す。
ウクライナやパレスチナで悲劇的な状況が続出し、日本も防衛費増強や武器輸出に前のめりのなっている今こそ、中村哲さんの心に思いを馳せるのも良いのではないでしょうか。(注2)
生きるため 傭兵になる男らを 緑の大地に導きし人 こやま はつみ
2023.10.13
(注2) 2023年8月23日、日本政府と国際協力機構(JICA)は、国際連合食糧農業機関(FAO)との間で、アフガニスタン向け「地域社会の主導による灌漑を通じた農業生産向上計画(FAO連携)」を対象として13.28億円の無償資金協力の贈与契約を締結しました。
これは、中村哲さんが考案したかんがい用水路建設事業の普及支援のことだそうです。わずか13億円とはいえ、日本政府が中村さんを認めてくれたなんてすごい。もっとニュースになっていいと思います。
また、最近、評論家佐高信氏は「中村哲を紙幣、例えば一万円札の顔にしたら、国際的な日本の評価は格段に上がるだろう」と言いました。これも大賛成です。