「教育はサービス」て、ほんと?

 最近、気になる新聞投稿を見ました。(注1)
 タイトルは「教師生活1年 理不尽な日々に」というもので、23歳の小学校女性教師が書いていました。
 内容をかいつまんで述べると、

 「教員はとても業務が多い。
 朝早く通勤して、退勤するのは夜7時過ぎ。
 休日は疲れをとるために家で過ごす。好きだった旅行にはなかなか行けない。
 日本の教員の働く時間は世界一。
 他の国では教師は尊敬される職業。
 が、尊敬されていると感じることはほとんどなかった。むしろ理不尽さを感じることの方が多い。
 同じ教員でも働く時間が少なく、待遇も良い海外の実際を見てみたい」

 というものでした。
 このままでは、早晩日本での教員生活にピリオドを打って、海外へ行ってしまうのではないか心配です。

 学校は朝が早いです。
 朝の職員打ち合わせが8:15からなので、遅くとも8:00前には出勤します。
 ちょっと遠めの自宅なら7:00ごろには出発、起床は6:00ごろ。
 学校にいる間は忙しくて、ゆっくり好きなコーヒーも飲めません。
 帰宅してからようやく次の日の授業の準備、中学歴史の場合、1時間の授業のために3冊の本を3冊読むこともあります。
 そして、間近に迫った学校行事の実施案、プリントの用意、費用の徴収の準備、書類の提出、生活指導のことなど山積みで、夜中12:00までに寝ることができたらラッキーです。
OECD38ヶ国の中でも、日本の教員の労働時間が断トツに長いのも有名な話です。

OECD各国の学校教員の1週間あたりの労働時間 2022年5月
 OECD各国の学校教員の1週間あたりの労働時間 2022年5月

 が、この投稿中でそれ以上に気になったのは、教員は尊敬されていると感じることはほとんどなかった、むしろ理不尽さを感じることが多かった、のくだりです。
 この傾向は年々深まってきたように思います。そしてそれは「教育はサービス」と考えるところから始まったように思います。

 1980年代以降、日本で国鉄そして郵政へと向かっていった民営化の波は、教育にも向かいました。
 それは、公企業を民間に委ねることによって、競争が起き活力が生まれる、「新自由主義」(注2)なのだ言われましたよね。自由主義なら悪いことはないだろう、しかも「新しい」んだしと思ったものです。
 しかし、その「自由」とは企業が利益を得るために枠を取っ払ってあげる、企業にとっての「自由」でした。

 教育でも、それまでの「子どもたちを国全体、私たち全員で育てていこう」という原則から離れ、「教育はサービス」の名のもと、「教育」を利益を生み出す「もの」であると捉えるようになっていきました。
 保護者も、子どもたちの成績を上げ、性格を良くし、評判の良い上級学校に入学させてもらう、それができれば「良いサービス」、出来できなければ「良くないサービス」と考えるようになりました。
 それは保護者が「教育消費者」となったことを意味します。教育をお金(や税金)で買っているのだと思っています。当然、良い商品でない場合はクレームをつけます。塾や音楽教室などではそれもあり得ますが、学校ではありえません。

 学校とは、様々な違いを持つ子どもたちが集まり、学習・行事を含めた様々な体験をし、時として問題を起こし、ぶつかり合いながら、それをどう受け止め、より良い成長につなげていくか、子どもたちと教員と保護者とが協働しあっていく場所なのです。

 ですから「教育はサービス」ではありません。
 保護者は、「教育消費者」としてクレームをつける存在になるのではなく、子どもたちの未来を育てる教育を、教員とともに担うパートナーであるべきです。(注3)

 教師が持てる誇りとはどんなものでしょう。
 子どもたちにどこまでも寄り添い、本人以上にその持っている内面の人間としての力を信じ、見守っていき、子どもたちも時間はかかっても、それに応えて育っていってくれる。
 その時、教師は良い仕事をしていると思え、自分の仕事に誇りを持てるのです。
 保護者は、学校の先生方をそう仕向けなければなりません。

 「新自由主義」のもと、 1990年代半ばからはっきりと、サービスをする側としての教員と、サービスを受ける側の保護者と、分断されてきました。
 その構造にはまり込もうとする僕らの意識を注意深く見守り、共に協力し合って、困難な時代に子どもたちをどう育てていけばよいのかの智慧を出し合う両者になっていくことが、何より大切だと思います。(注4)

2024.4.12

(注1)2024年4月7日 朝日新聞「声」欄
(注2)シカゴ大学の経済学者ミルトン・フリードマンらが唱えた経済学説で、アメリカのレーガン政権、イギリスのサッチャー政権、そして日本でも中曽根政権以降、歴代自民党政府がその経済理論を取り入れていきました。
(注3)参考文献『モンスター・ペアレント論を超えて』小野田正利 時事通信社 2013
(注4)当然、教員の側も、クレームを持ち込む保護者に対して、短絡的に「困った親だ」とか「モンスター・ペアレントが来たよ」などと言ってしまう意識は変えていかなければなりませんね。それについては次の機会に。