歴史を背負った天才・萩尾望都『ポーの一族』

 もちろん小学生のころは、マンガ大好き少年でした。 
 「少年マガジン」や「少年サンデー」の発売日は待ち遠しく、『8マン』桑田次郎や『サイボーグ009』石森章太郎、あるいは『紫電改のタカ』ちばてつや、など読んでいるときのワクワク感は今も覚えています。

 でも、大人になってから読んだ萩尾はぎお望都もとの『ポーの一族』から受けた衝撃たるや、大変なものでした。
 くくりとしては少女マンガなのです。
 でも、これはもう少女マンガではありません。
 「私たちはどこから来て、どこへ行くのか」を問いかけ続けるアートであり、文学であり、そして哲学書なのだと思ったのです。

 まず、絵として非常に美しい。
 少女マンガ特有の豪華なフリルやレース、背景の花びらなど、女の子が好きなものに溢れている感覚ではなく、シンプルで線の一本一本にまで心遣いが窺える、落ち着いて繊細な品の良さがあります。
 漫画家・エッセイストのヤマザキマリさんは、ここで描かれる少年たちを見て、ルネサンスのボッティチェリやフィリッポ・リッピが描く天使たちにそっくりだと思ったと語り、フランス文学者・中条省平氏はラファエル前派の画家(注1)に通じる感性だと言っていました。(注2)

 そして、作品は文学的な香りが高く、語られる言葉が詩のように美しい。自分でも気がついていないような心の世界を、そっと引きはがして表現してくれます。どうして、このような言葉が紡げるのでしょう。

 内容は「ポーの村」に住むバンパネラ一族の話です。彼らは、人の血を吸い、歳を取らず、子を産むことも老化することもなく、何百年も生き続ける吸血一族です。
 主人公はエドガーとメリーベルの兄妹で、それぞれ14歳と13歳、そして途中からバンパネラになったアランという少年、14歳。
 物語は4歳のエドガーと赤ん坊のメリーベルが森に捨てられ、「ポーの一族」の最も長老である老アンナに拾われる1744年に始まります。
 全部で15の物語からなるシリーズですが、それらは時系列に沿って語られるのではなく、1757年イギリスでの物語の次は1959年のスイス、その次は1820年のまたイギリス、そしてシリーズ最後の作品「エディス」の舞台は1976年(発表年と同じ)でした。

 その物語の中に身を浸すうち、僕らは自らの存在の由縁を問い始め、「永遠」を探していくことになります。

 オービン卿という登場人物が出てきます。
 彼は魔法使いのように髪を伸ばしていた若い時にエドガーに会い、その後何十年も彼を探し続けて、ついに昔と同じ年齢のエドガーに会います。
 彼はエドガーに、自分のことなど覚えていないだろうねと語ると、エドガーは「覚えているよ、魔法使い」と答えます。
 それを聞いたオービン卿は思わず涙を流します。
 それは「永遠なるものがあった」と、人が知った時の歓びだったように思えてなりません。

 『ポーの一族」の第1作が描かれた1972年という時代について、前述の中条省平氏はこう語っておられます。

 1972年という年は、日本では連合赤軍事件が起こり、革命への情熱が息の根を止められた時でした。革命戦士は就職をして、高度経済成長のなかに吞み込まれていきました。そして、一家のお父さんとなって、逆に子どもたちを抑圧する側に回ります。
 その後、日本はバブル崩壊まで、いや今にいたるまで経済成長一筋でいきます。
 しかし、『ポーの一族』の主人公たちは、そんな社会の価値観とは切れた美意識や倫理をもって、永遠の時間を孤独に生き続けていきます。

 物質至上主義に埋没し、お金さえあれば何をしてもいいと考えるようになってしまった僕らに、本当はこのように生きたかったと痛切に思い出させる力と、時への憧れをこの作品は持っているのです。

 そう考えてみると、『ポーの一族』は1960年代後半から70年代初頭に現れて、世界に次なる精神文明への扉を開けようとした者たちの正当なる後継者のように思えてなりません。
 この当時、世界は同時代的に文明の次なるステップに行こうとしていました。
 その動きは「カウンター・カルチャー(対抗文化)」と呼ばれ、若者たちは親の世代までの数百年続いた物質的な価値観を超えて、人間の本来的な生き方を求めていきました。
 そして、人間と世界、人間と宇宙のあるべき関係の答えを求めて、まだ見ぬ外世界と自分の内世界への旅に出かけていきました。

 ドラッグによる意識の拡大の体験も入り口としながら、世界を旅し、インドに行き、本当の自己を探し、宇宙との合一の体験を求めて瞑想をし、禅に傾倒し、「宇宙の子として、人は何をすべきか」を考えていきました。
 コミューン的生活をし、原始キリスト教に惹かれ、自然食を食べ、占星術に親しみ、「宇宙船地球号」(注3)を合言葉にエコロジーという概念もつくり上げていきました。
 フロイトよりはむしろ「集団的無意識」を唱えるユングに学び、現代物理学と「タオ」などの東洋思想と結び付けるなど(注4)、「ニュー・アカデミズム」をつくっていきます。

 文学においても、カルロス・カスタネダの『呪術師になる』(ドン・ファン・シリーズ)、C・S・ルイスの『ナルニア国物語』、トールキンの『指輪物語』、リチャード・バックの『かもめのジョナサン』、そしてインド・タゴールの詩集や『星の王子様』までもがこの文脈の中で、理解され、評価されていきます。

 その世界史的に、新たな段階の文明へ行こうとする大きな潮流の中で、『ポーの一族』も登場してきました。
 ですから、日本の、ましてや少女マンガという枠組みの中で『ポーの一族』をとらえようとすると、その真価を見誤ります。
 上記の作品の作者たちや、作家ロバート・A・ハインライン(注5)やアーサー・C・クラーク(注6)、あるいは詩人アレン・ギンズバーグ(注7)らと共に並び立つのが萩尾望都ということになるでしょう。(注8)

 中条氏は言いました。
「萩尾望都は単なる天才ではなく、歴史を背負った天才だったのです。」

 思うことがあります。
 この時代、この方々は僕らに確かに来るべき世界のヴィジョンを提示してくれました。 
 にもかかわらず、その後のグローバル資本主義・新自由主義の圧倒的な流れの中で、僕らは、「自分さえ良ければいい」「金さえあればいい」へと再び、転げ落ちてしまいました。その果ての、世界の危機はご覧になっている通りです。
 なぜ、僕らはこんなにも簡単に物質的価値観に歯止めなく流されてしまうのでしょう。
 その意識の構造を知っていくことが、限りなく求められていると思います。

2026.1.25


ライオンと魔女

(注1)1848年画家ミレイ、ハント、ロセッティにより、イギリスで結成された美術結社。ラファエロを規範とするアカデミーに異を唱えました。ミレイの『オフィーリア』は日本でも有名です。 

(注2)このブログは、お二人の言葉も含め、『時をつむぐ旅人 萩尾望都』別冊NHK100分で名著(2021年)を参考にさせて頂きました。
(注3)この有名な言葉は、アメリカの思想家・建築家バックミンスター・フラー(1895~1983)が『宇宙船地球号操縦術マニュアル』1963の中で初めて使いました。
(注4)代表的な研究書に、物理学者フリチョフ・カプラの『タオ自然学 The Tao of Physics』1975 があります。
(注5)アメリカ、1907年~1988年。『異星の客』1961はカウンター・カルチヤーの聖典と言われました。他に『夏への扉』1957や『月は無慈悲な夜の女王』1966などが代表作と言われています。
(注6)アメリカ、1917年~2008年。スタンリー・キューブリック監督によって映画化された『2001年宇宙の旅』1968が有名ですが、個人的には何と言っても『地球幼年期の終り』1952。SF史上随一の名作と言われています。
(注7)アメリカ、1926年~1997年。『吠える』で有名なビートニク詩人。

(注8)萩尾望都作品の他のお勧め。
『百億の昼と千億の夜』1978年 「神」をテーマに壮大なスケールで、人類の終末と救済を描きます。アトランティスの祭司オリオナエ、ギリシアのプラトン、シッタータ(釈迦)、阿修羅王が主人公。震えます。原作は光瀬龍。(1967年刊)
『11人いる!』1975年 宇宙大学入試で宇宙船に集められた受験生たち。10人一組なのに、11人いるのはなぜか?SFとしても素晴らしく、後味の良い作品です。続編あり。