世界的女優となったこの少女は、人生の最後に真の仕事を見つけました

 この少女は誰でしょう。

 ヒトラー率いるナチス・ドイツは、1939年9月のポーランド侵攻以降、瞬く間にデンマーク、ノルウェー、そして1940年5月にはオランダ、ベルギーを占領します。 その1940年のオランダ。冬の寒いある日、見知らぬ男が地下室に潜んでいる少女を訪れます。男は少女の叔父オットーの部下だと告げました。
 オットーはドイツに対する抵抗運動(レジスタンス)の中でドイツ軍に捕まり、銃殺されていました。当時のオランダでは、ドイツからの自由を回復するために、多くの人々が命を賭して活動していました。
 男は少女に一枚の紙切れを川向こうの連絡先に届けてほしいと頼みました。
 少女は黙ってうなずくと、その紙切れを靴底に隠して走り始めます。彼女が橋を渡ろうとしたとき、ナチスの兵士が銃を構えて近づいてきました。子どもでも、もし紙切れが見つかれば容赦なく射殺されます。
 「止まれ!どこへ行く!」彼女は心臓が止まりそうでしたが、「川向こうのおばさんの所へ行くんです。赤ちゃんが生まれるから早く行かなくちゃならないんです」と噓を言いました。紙切れは見つけられず、無事に相手に届けることが出来ました。
 少女はこの時11歳。
 そののち、彼女はレジスタンスの人々が集まる場所で歌やダンスをして人々を励まし、その収入からまたレジスタンス運動のためにお金を出したのでした。

 分かりましたか?分かった方は、かなり勘の良い方?
 そう、女優オードリー・ヘップバーンです。

 先日、ふとした拍子にアンディ・ウィリアムス(1927~2012)が歌う「ムーン・リバー」を聴きました。オードリー・ヘップバーン主演のロマンチック・コメディ『ティファニーで朝食を』の主題曲。作曲ヘンリー・マンシーニ、作詞ジョニー・マーサーによる名曲です。
 作曲者によるインストルメンタル版やR&B歌手ジェリー・バトラーが取り上げたものもヒットし、日本ではこのアンディ・ウィリアムスのものが人気がありますが、現在まで2000の録音があるというこの曲で、最高はやはり映画の中で歌うオードリーのものです。
 窓辺に寄りかかり、ギター1本を爪弾きながらワン・コーラスだけ、わずか1分を歌います。まったくのシンプルさなのに、涙が出てしまうほど、聴き手の胸を打ちます。どうしてこれほど心に響くのでしょう。本心の願いに生きた人の歌声だからでしょうか。(注1)

 オードリー・ヘップバーンは1929年(世界大恐慌の年)ベルギーのブリュッセルに生まれました。父はイギリス人、母はオランダ人。
 第2次世界大戦中にはオランダ南部のアーネムで暮らします。(注2)
 この頃先述のように大好きだった叔父が殺され、義兄のイアンは強制労働収容所、その兄のアレクサンドルは収容を逃れようと姿を隠していました。
 オードリーはまた、多くのユダヤ人たちが列車で収容所へ運ばれていくのを何度も見たそうです。
 1944年にはオランダでは大飢饉が発生、オードリーは栄養失調に苦しみ、オランダ解放の時には貧血・喘息・黄疸・水腫になっていました。その回復を助けてくれたのが、ユニセフの前身、連合国救済復興機関(UNRRA)から届いた食料と医薬品でした。
 このとき代謝機能が衰えていたオードリーは終生体重50kgを超えることはありませんでした。

 終戦後ロンドンに渡り、バレエを学んだオードリーは舞台・映画にも端役で出演、フランスにロケに行ったときに女性作家コッレトに見い出され、ニューヨーク・ブロードウェイに進出、1951年に推薦されて映画『ローマの休日』の王女役のカメラ・テストを受けることになります。
 そのラッシュを見た監督ウィリアム・ワイラーは唖然としました。
 「自分が何かとても特別なものを見ているという感じが湧き上がってきた。
 オードリーはまさに王女だった。そして涙が溢れてきた。
 私には分かっていた。あっという間に、世界中が彼女に恋をしてしまうと」

 その後の彼女の活躍は、皆さんも良くご存じの通りです。
 初主演の『ローマの休日』でいきなりアカデミー主演女優賞、ゴールデングローブ主演女優賞を受賞。
 続いて『麗しのサブリナ』『パリの恋人』『昼下がりの情事』『ティファニーで朝食を』『噂の2人』『シャレード』『マイ・フェア・レディ』『暗くなるまで待って』などの話題作に出演、ハリウッド黄金期を代表する女優になっていきます。人々は彼女を「スクリーンの妖精」と呼びました。
 が、1970年代には映画界での輝かしい経歴に区切りをつけ、家族との暮らしに時間を費やします。70年代以降の主演映画はわずか3本。

 彼女が人々の前に再び姿を現したのは、1980年代後半でした。
 このころからアジア・アフリカの飢餓の実態が世界に知らされるようになっていきます。そこで苦しむ、やせ衰えた子どもたちの姿を見たオードリーは思います。
 「あの子どもたちはかつての自分だ」。
 まるで恩返しをするかのように、オードリーはユニセフ親善大使となり、エチオピア・ベネズエラ・エクアドル・ホンジュラス・スーダン・ベトナム・バングラデシュ(書ききれない!)などを訪問、その頃の様子を国連の報道写真家ジョン・アイザックはこう語っています。
 「身体中に蝿がたかった子供たちにしばしば出会ったが、彼女はいやな顔一つせず彼らを抱きしめる。
 そんな光景は見たことがなかった。他の人間は躊躇したが、彼女は全く気にせずに手を差し伸べた。
 子供たちは吸い寄せられるように近づいてきて、彼女の手を握ったり、まとわりついたりしてくるんだ」

 子どもたちを抱き、井戸掘りを手伝い、教科書を渡し、マスコミを通して、大人たちの都合によって犠牲になる子供たちの声を世界に伝え、支援のための資金集めをしました。ただのデモンストレーションではないかという声も出た中で、彼女はこう言っています。
 「思いがけない贈り物をもらった気持ちです。
 私が有名になったのは何のためだったか、今やっとわかったからです。
 私に分けてもらった人々の力を、子どもたちのために使えるのですから」

 スターにとっては50歳以降をどう生きるかは大きな課題になります。が、この5年間はオードリーに与えられた本当のお仕事・天職でした。

 1992年9月、オードリーが最後に訪れたのは、当時地上で最も悲惨な場所と言われたアフリカ・ソマリアでした。
 内戦と飢餓で800万人が餓死しかけていました。オードリーの目の前で毎日死んでいく子どもたち。ただ抱きしめてあげるだけでした。

 「私はこの目で見ました。そして憤りがこみ上げてきました。
 みんなの罪ではなくても、みんなの責任はあるはずです。
 子どもたちを救うために立ち上がってください。
 なぜなら、彼らが子どもたちだからです」

 反応もできないほど衰弱した子どもたちの頬をなで、手を取り、語りかけ、微笑みかける彼女の姿が映像として残されています。見るたびに涙が溢れます。
 が、その時すでに彼女は結腸がんの末期でした。
 わずか4か月後の1993年1月20日、オードリーはスイスの自宅「ラ・ペジブル(平和)」で63歳の生涯を閉じました。

 その1か月前の最後となったクリスマス・イヴの日、体調の良かったオードリーは自分の子どもたちを呼んで、彼女が好きだった詩の一説を聴かせたといいます。

 「美しい唇のためには、親切な言葉を話すこと
 美しい目のためには 他人の美点を探すこと
 スリムな体のためには おなかを空かせた人々に食べ物を分けてあげること

 大人になれば 君は2つの手を持っていることに気づくだろう
 自分自身を助ける手 そして他人を助ける手を」(注3)

2023.12.8

(注1)You tubeで見ることができます。                       
【英語】ムーン・リバー (Moon River) (日本語字幕) (youtube.com) 
(注2)同じとき、北部の首都アムステルダムには同い年の少女アンネ・フランクが住んでいました。オードリーは後年『アンネの日記』を読んで「ここに書いてある事は私の事だ」と思ったそうです。
(注3)サム・レヴェンソンの“Time Tested Beauty Tips(時の試練によって磨かれる美)”という詩の一節。
    またこの記事は、日本テレビで放映された『知ってるつもり⁉オードリー・ヘップバーン』(1995年1月)を参考資料としました。