しかし、実際に厳しい教育現場に行くと、それでは通用しないと思い始めます。ルソーやペスタロッチの言うことは18世紀ヨーロッパではともかく、複雑化した現代ではただの理想にしかならず、目の前にいる「ひどい」としか思えない生徒た ち相手には意味がないとすら思ってしまうのです。
ですから、「可能性」というのは何を意味するのか、そして子どもたちの持っている「可能性」を開くということが、現場の一つ一つの場面ではどういうことなのかと、落とし込むことが必要になります。
実際にこんな事件がありました。
勉強もせず、生活態度も悪く、問題行動をよく起こし、テストの点も10点、20点という生徒がいました。担任の先生との関係もこじれていて、親も学校に批判的でした。
ところがある時、その彼が定期テストで驚くほどの高得点をとったのです。
担任はテスト返しの時に思わず「あんた、カンニングしたでしょ」と言ってしまいました。日頃の状況からみて、どう考えてもそうとしか思えなかったのでしょう。
彼は帰宅して担任に言われたことを泣きながら両親に訴え、父親が激怒して、その日のうちに「どういうつもりだ!」と学校に怒鳴り込んできました。何を聴いても納得せず、教育委員会も巻き込む大騒ぎになり、責任者として校長は体を壊し、担任も精神的に参ってしまい、次の年にほかの学校へ逃げるように異動していきました。
事実はどうだったのかは分かりません。
カンニング・ペーパーを持っていたとか、机の中のノートを見ていたなどの場合は別ですが、テスト中に監督をしている教員の目を盗んで他の生徒の答案を見ていたのではないかなどの疑いがある場合。前の座席の生徒の答案と回答がそっくりで、そうしたとしか考えられないことも良くあるものです。
そんな時、生徒を呼んで白状させたくなります。実際にカンニングをしていて、それを素直に言ってくれれば別ですが、そうでないとき、「正直に言え!」などと取り調べをする正義の味方、警察官・検事になりたくなってしまうことがあります。
それは我慢しなければなりません。
こういう場で、子どもたちの可能性を信じて引き出すというのはどういうことなのでしょう。ここで、本当に大切なことは何でしょう。
もし彼が本当にカンニングしたとしても、本人がカンニングしてしまった自分の卑怯さ、弱さは自分で知っています。
ですから、それを一度意識化し、自分の弱さを噛みしめ、次は自分の力で精一杯頑張ろうと思ってもらえばいいわけです。
例えば教科担当だったらテスト返しのとき、クラス担任でしたら帰りの学活のときに、
「他の生徒の答案を見た人がいたんじゃないか、とある先生が言っていました。確かに、テスト中にちらちら頭の動く人もいましたね。
その拍子に他の人の答えが見えると、そういうつもりがなくても、人間て弱いから、つい見たくなっちゃう。
すると、結果としていい点を取っても、自分が弱さに負けたことが自分で分かるからね、そのつらさが心に残る。
それは本当の成長ではないことも分かるし、ずっと引け目として残ったりもする。
自分の中の本当に大切な心を、大切にできるようになって下さいね」
とか言うのは、ありではないでしょうか。
実際にこういう言い方によって、教師である自分の心の中に生徒の可能性(注1)を信じる心が育ち始め、生徒たちとの関りが良くなって、生徒が良く育っていくのを何回も体験しました。
さらに一歩進めると、生徒が持っている可能性を、信じられない自分がまだいることも認めつつ、信じる自分になっていこうと決心することが大切な実践原則になります。
日々、そう心を立て続けて行動するとき、生徒の中にある大切な心・可能性は僕らの前に徐々に姿を現し始めてくれます。
教師とは、最初から教師なのではなく、教師になっていくのだと思います。
2023.11.24