8.アカシアの雨がやむとき 西田佐知子 1960 作詞:水木かおる 作曲:藤原秀行

恋に破れた女性の歌なのです
でも、それまで歌謡曲の世界ではタブーだった「死」という言葉を前面に出し、人生に対する一種の諦観と、それを引き受けるからこそ見える希望すら聴き手に感じさせる3分間の歌は、まるで一編の映画か文学作品のよう。
実際、西田佐知子がこの曲をなかなかうまく歌えずに苦労していた時、作詞の水木かおるが「この曲は芹沢光治良の『巴里に死す』という小説をモチーフにしてかいたもの」と教えてくれて、西田はパリの風景をイメージしながら歌うようにしたということがあったそうです。
学生の死者まで出した運動に疲れた若者たちが、西田佐知子の乾いた静かな諦観に惹かれたともいわれます。
「時代の歌」でした。
美空ひばりはデビューしたての西田佐知子を聴いて「凄い歌手が出てきた」と嫉妬したと言います。
そして、音楽評論家・松山晋也さんは「世界最高峰の女性歌手が放った、日本歌謡史上に燦然と輝く不朽の名作」と言い切りました。(注1)
西田佐知子 アカシアの雨がやむとき
紅白歌合戦1969 凄い歌の説得力です。
9.上を向いて歩こう 坂本九 1961 作詞:永六輔 作曲:中村八大
いま聴いてみても、65年前の音楽とは思えないほど、おしゃれでクールです。
イントロで使われているマリンバは、バップやクール・ジャズに精通していた中村八大ならではの発想、中間の印象的な口笛は、ビング・クロスビー以前からアメリカ・ポピュラー曲ではおなじみの手法。
そして、「上を向いて」が「ウヘホムフイテ」と聴こえると永六輔が最初は激怒したという九ちゃんの独特の唱法は、エルヴィス・プレスリーやバディ・ホリーからの影響を受けたロックンロール的なもの。だって、九ちゃんはもとは日劇 ウエスタン・カーニバルにも出演したロカビリー歌手ですものね。
そんな国際感覚満載でありながら、同時に、母親に教えられた小唄や清元の邦楽的な節回しが滲むエキゾチックさも、世界で受けた原因の1つだろうと永は言っていたそうです。
Kyu Sakamoto ~ Sukiyaki (Official Music Video) [上を向いて歩こう 坂本九]
10.スーダラ節 植木等 1961 作詞:青島幸男 作曲:萩原哲晶
小学生のころ、初めてこの曲を聴いたときはただのおふざけの曲としか思わなかったのですが、今聞くと実に考え抜かれた名曲であることが分かります。
イントロのザッザッザッという陽気なホーン、ひょうきんなオルガン、脱力するようなコール&レスポンス。
「酒」「競馬」「女性」の3つに失敗を重ねる歌詞に「ちゃ」「きゃ」を多用したり、「ら」を巻き舌にして、だらしなさを醸し出します。
主メロディには、まろやかに木琴が寄り添い、サビの「スイスイ スーダララッタ~」のところはラテン・リズムを入れ、お寺の木魚も聴こえているかのようです。
良くこんな要素を詰め込んだものですね、この曲作りは本当に凄い。
植木等の実家は、浄土真宗のお寺で、本人もお坊さんの修業をしていたというのは有名な話です。
テレビ・映画などで見る不真面目な様子とは全く違い、本人はいたって物静かで真面目な方で、お酒もギャンブルもやったことがないそうです。
ですから、この曲を吹き込む話が来たときには、植木等は「こんな曲を歌うと、自分の人生は変わってしまう」と悩んだそうです。
そこへ、お父さんから電話。
悩みをお父さんに聴いてもらうと、「どんな歌だ?ここで歌ってみろ」と言われました。激怒されるかなあと思いながら電話口で歌ったら、お父さんは涙を流さんばかりに感激し、
「これは親鸞聖人の教えそのものだ。『わかっちゃいるけど、やめられない』こそ、人間の悲しみの本質だ。日本人の9割は、そう思いながら生きている。これは大ヒット間違いなしだ!」
と言ってくれたそうです。凄いお父さんですね。(注2)
You Tube で見ることができるステージの姿も強烈です。
植木 等 スーダラ節
11.ふりむかないで ザ・ピーナッツ 1962 作詞:岩谷時子 作曲:宮川泰
初々しく繊細な心情を、弾けるような明るさとスピード感で歌いあげます。
あなたの好きな黒い靴下を、いま直しているなんて・・・
岩谷時子・宮川泰コンビの最初期の傑作。
このころまで主流だった、外国曲に日本語の歌詞を載せたカバー・ポップスから、日本人のオリジナル・ポップスへと移行する、その歴史的な第1号です。
ザ・ピーナッツは、実はトップ・スターだけが出演できるアメリカの「エド・サリバン・ショー」に出演した最初の日本人シンガーでした。
その映像が残っているのですが、「恋人よ我に帰れ」などの有名スタンダード曲を完璧な英語と歌唱力で歌っていてびっくりしますし、東西ドイツやイタリアで日本の歌手と言えば「ザ・ピーナッツ」だったそうです。あまり知られていませんよね。
僕にとって忘れられないのは、1つは日曜日の夜に放映されていたザ・ピーナッツ主催の音楽バラエティー・ショー「シャボン玉ホリデー」。(注3)
ザ・ピーナッツが歌うテーマ曲の、あの幸福感は最高でした。
エンディングで歌う「スターダスト」が流れ始めると、楽しい日曜日が終わってしまった・・と寂しくなりました。お陰で、「スターダスト」の歌詞は今でも覚えています。
もう1つは、映画『モスラ』に「小美人」として出演した時のモスラを呼び出す歌。野太い歌声が衝撃でした。あの歌は実はインドネシアの世界の平和を求める祈りの詩なのだそうです。
ワールド・ミュージックの先駆でもあったんですね。
1975年、姉の結婚を機に、ザ・ピーナッツがぴたりと音楽活動をやめてしまってことが残念に思えます。
「恋のバカンス」1963「ウナセラディ東京」1964「恋のフーガ」1967などの名曲もぜひ聴いてみてください。
乞う、ザ・ピーナッツの再評価。
ザ・ピーナッツ ふりむかないで
スマイリー小原のツイスト指揮もかっこいい。
モスラの歌 ザ・ピーナッツ 1961年【歌詞・訳付】
12.いつでも夢を 吉永小百合・橋幸夫 1962 作詞:佐伯孝夫 作曲:吉田正
半年で100万枚を突破し、その後260万枚まで売れたといいます。
すでにスター街道まっしぐらだった2人は多忙を極め、歌は別々に録音されてのちにミックスされ、文字通りのデュエットができたのは、同年暮れのレコード大賞受賞時だったそうです。
吉永小百合はのち、『あゝひめゆりの塔』1968に出演したり、『夢千代日記』で原爆症に苦しむ主人公を演じたり、平和詩の朗読を続けるなど、一貫して平和活動をしてくれています。
今年80歳、こう言ってくれたことがあります。
「私は終戦と同い年です。
皆さんに戦争から何年たったかを忘れてほしくないから、年齢を公表しています」(注4)
素敵な方です。
橋幸夫+吉永小百合/いつでも夢を/1962年
昭和43年(1968)のレコード大賞10周年記念番組の映像。1962年の映像は残っていないようです。
13.こんにちは赤ちゃん 梓みちよ 1963 作詞:永六輔 作曲:中村八大

長男誕生の知らせを受けて病院に駆けつけた中村は、新生児室のガラス越しに息子と初めて対面。
「彼はまるで赤ちゃんに名刺を差し出して『僕がパパだよ、よろしくね』と挨拶でもせんばかりの喜びようでした」とその場に同行した永の話。
その10日後に永が中村にプレゼントしたのが「こんにちは赤ちゃん」でした。だから元々は「わたしがママよ」ではなく、パパの歌だったのです。
中村は早速メロディを付け、『夢であいましょう』の今月の歌として発表。
この時歌った梓みちよは独身も独身、20歳になったばかりでした。ジャズ・ポップス志向でもあった彼女はこの歌をどう歌ったらいいのかわかりません。
その時の2人のアドバイスが「目の前に、玉のような赤ちゃんがいるつもりで、優しく語りかけるように歌ってごらん」というものでした。(注5)
母親でなかったからこそ、鮮やかに、子を慈しむ心情が表現できたのかもしれませんね。
梓みちよ Michiyo Azusa こんにちわ赤ちゃん
14.逢いたくて逢いたくて 園まり 1966 作詞:岩谷時子 作曲:宮川泰
情感たっぷりというだけでなく、素敵な発声、語尾のヴィブラートの絶妙な震え、息継ぎさえも音楽になってしまう豊かな響きに、一つの世界に抱擁されてしまいます。
園まり21歳時の空前の大ヒット。
この1966年~67年、2年続けて浅草のマルベル堂のブロマイド売り上げで第1位だったそう。
私の父も大ファンで、後年ディナーショーに連れて行ったことも(ディナーショーなるものをただ1度体験)
残念なことに昨年亡くなられましたが、身の回りをご自分で片付け、人生の振り返りをされて、多くの方に感謝をされ、その時のご様子は見事だったそうです。R.I.P.
園まり 逢いたくて逢いたくて 1番だけ すごい!
Aitakute Aitakute (逢いたくて逢いたくて)1966 Trailer 映画予告編
本当に素晴らしい歌謡曲たちでした。
なんで、こんなに素晴らしい、瑞々しい音楽ができたのか、少し考えてみました。
まず、歌謡曲は、作詞家・作曲家・編曲家という専門分野のプロによってつくられていることが大きいと思います。歌い手は、曲作りに参加していません。
この人たちは、もちろん最初は、どれだけ人々に受け入れられ、ヒットするものをつくれるかから始めると思うのですが、そのために、自分の思いの表現というよりも、いまの時代の人々に届く「時代の風」は何かということを切実に聴こうとしていたと思うのです。
1970年代以降、ロックが開いた、自分の内面を、自分が弾く楽器を使って表現していく自作自演シンガーが多くなっていきました。
それは、「個の解放」という目覚ましい成果を上げるものでした。でも、シンガーと同世代の人の心には響くものではあっても、どんな世代にもというわけにはいかなくなってしまいました。
メロディも職業作曲家に軍配が上がります。
1980年代以降には、音楽はサウンドの新奇さ・面白さを求めることが主流になり、歌詞は軽んじられていきます。
歌が、時代を描かなくなってしまいました。
今は、描かれる素材も男女間に起こるすれ違いや愛しさばかりに偏り、時代背景はあまりありません。(注6)
今という時代がどういう時代なのかをつかめる人がいなくなってきたのだと思います。
つかむことができないぐらい複雑で、困難な時代ということなのでしょう。
産業革命以降、経済発展こそが人間の幸福だとする資本主義社会の中で、私たちの心がどれだけ、「目先のこと」「自分のこと」「お金のこと」(注7)だけを大切にする唯物主義価値観により、傷つき、痛んできたのか。
そして、では、人間の中にある何を甦らせていけば、誰も傷つくことがなく、皆が笑い合え、励まし合える世界をつくりたいという願いへ、戻っていくことができるのか。
そういう世界観・人間観を持つ歌は、いまどこに生まれているのでしょう。見つけたら、またご紹介しますね。
2025.8.25
(注2)お父さんは植木 徹誠(てつじょう)、檀家にて、出征兵士の前で、「戦争は集団殺人」「卑怯といわれても生きて帰ってくること」「人に当たらないように鉄砲を撃つこと」を説くような人だったそうです。
若い時にキリスト教の洗礼を受け、僧侶でありながら、社会主義者として労働運動、部落解放運動の真っ只中に飛び込んでいき、治安維持法違反で投獄もされました。人間はみな平等という立場から、徹誠さんが息子に「等」という名をつけたそうです。
(注3)1回分26分がアップされていました。当時のバラエティー番組のあまりの質の高さに驚くと思います。ご覧になってみてください。
50年前の音楽ショー「シャボン玉ホリデー」 – YouTube
どんな戦争にも、正義はありません。
核兵器の廃絶と、世界の平和を求めて、みんなでできる限りの行動をしましょう」
政治的発言を異常なまでに怖がる日本の芸能界で、ここまで言い切る画像をつい最近発見しました。結構有名なものらしいです。
しかも「この画像は自由に保存ご利用ください」なんて。
とても柔らかい印象の方なのに、筋金入りですね。
(注5)『この歌この歌手』参照 読売新聞社文化部 社会思想社1997
(注6)「ミュージック・マガジン」2007年12月号半田健人氏論考より
(注7)2025高橋佳子講演会より
