もちろんアメリカは自動車社会です。
高速道路は市内も含めて片道5車線、Free way と呼ばれる通り無料です。
自動車保有台数は2億8904万台(2020)、1.2人に1台保有していることになります。
オレゴン州に住んでいた若い友人も、本人とご両親で1人1台、計3台持っていました。妹さんは、どこか離れた大学に行っていたようですが、そこで1台持っていたかもしれません。
と言って、生活舞台まで自動車中心かというと、そういうことはありません。
まず、東京の首都高のように町の中に高速道路高架が走り回っているということはありません。
僕が住んでいたカリフォルニア・サンタモニカの住宅街の街路では、車道の幅は片側に駐車して、もう1台通れるぐらい、両側の歩道の幅は車道と同じぐらいあります。ですから、車が人が歩いているところに突っ込んで来るというのは聴いたことがありません。
その上、車道は20m程度の間隔をおいて山型に盛り上がるように舗装してあり、車はスピードが出せないようになっていました。
アメリカに2年住んで日本に帰って来たときに、1番驚いたことが街路の歩道が狭くて、車道にはみ出すように人が歩いていたことです。
車の助手席に座っていた僕は、そのまま歩行者に突っ込むか、ぶつかってしまうのではないかと恐怖しました。
乗り終わってくたくたに疲れ、「ふうー、日本は狭いからなあ~アメリカは広くて良かったなあ」と溜息をつきました。
日本の自動車事情の悪さを、国土の狭さのせいにしていました。
が、実は狭さではない、特殊な事情が日本にはあったのです。
日本における自動車の普及は、戦後の高度経済成長のプロセスそのものだったと言われます。その辺のことを、経済学者・故宇沢弘文氏(1928~2011)の名著『自動車の社会的費用』(1974)を参考に考えてみたいと思います。数字は1970年代のものになりますが、意味するところは変わっていないと思います。
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1950年にわずか40万台だった自動車の保有台数は、1960年には340万台を超え、1972年には2400万台になります。12年間に約7倍。(2020年の時点では7846万台、アメリカ、中国に次いで世界第3位)
乗用車の保有台数も増加は特に著しく、1960年44万台→1972年979万台、12年間で20倍です。
日本では、国土面積当たり、可住面積当たりの自動車保有数が他の国に比べて異常に高いそうです。
可住面積1㎢あたり1960年は30台足らずだったのが、1972年には200台近くになりました。これはアメリカ26台、イギリス120台、ドイツ102台と比べても、日本は自動車密度が高い国ということが分かります。特に東京は1500台、大阪は900台です。
道路網も巨額の投資によって、極めて速いテンポで整備されてきました。
1971年3月、日本における道路総延長は102万㎞、国土面積1㎢当たり2.71㎞、これはベルギーに次ぎ、世界で最も密だそうです。アメリカは0.64㎞、カナダは0.08㎞です。
可住面積1㎢当たりでみれば、日本は8.7㎞の道路延長、アメリカの8倍、カナダの60倍だそうです。
その道路の実際の様子はどうでしょうか。
東京・大阪などの大都市では、幹線道路はある程度整備されていて、歩道と車道が分離されているところが多いです。しかし、そのような街路でも歩道は狭く、並木などの樹木は例外的にしか植えられていません。
広い空間が自動車通行用に充てられていて、歩道すれすれに建物が並び、歩行者は自動車と建物の間の谷間を息をひそめて歩かなければなりません。
しかも、車道の横断に際しては横断歩道橋で、高い急な階段を上り下りしなければ横断できないようになっています。高齢者、幼児、障がい者などはどうしたらいいのでしょうか。(外国で歩道橋など見たことがありません)
幹線街路をはずれて、裏町を歩くとどうでしょう。
住宅地と商店街を問わず歩道と車道とが分離されているところはますます少なくなり、自動車がようやくすれ違えるような狭い街路を排気ガスをまき散らしながら、時として警笛を鳴らして自動車が走ります。
歩行者は絶えず前後に目を配りながら街路の端を歩きます。
子供たちが街路で遊ぶことはまれになり、通学の際は敏捷に自動車を避けながら歩かなければなりません。
そして、騒音と振動と排気ガスによって、住民の生活は脅かされ続けています。
歩道のある街路の割合は区部をとってもわずか9.8%、三多摩地区にいたっては2.3%
にすぎませんでした。
今にいたるまで、東京のいたるところに、白線をひいて歩行部分を示したり、ガードレールと称する柵を設けて歩道・車道を分離しただけの街路を多く見かけます。
歩行部分はギリギリに削られ、歩行者を犠牲にして自動車通行が支障なくできるように配慮されています・
宇沢氏は、このような道路を設計し、自動車の通行を許しているのは果たしてどのような精神構造の持ち主だったのかという疑問を持たざるを得ない、とまでおっしゃっています。
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その結果、次のようなことも起こりました。
1年間の自動車事故による死者数は、2023年度には2678人でした。1970年代から比べると、ずいぶん減りました。
ところが、日本ではこの死亡者の中でも、「歩行中」あるいは「自転車乗車中」での事故によるものが世界の中でも群を抜いて高いです。
日本での「歩行中」あるいは「自転車乗車中」での事故死亡者は、自動車事故死亡者全体の何と52.6%です。
アメリカでは19.9%、イギリスでは31.1%、ドイツでは28.2%、フランスでは21%、そしてスウェーデンでは19.9%となっています。(2019年)
これは、日本の道路構造の不完全さによって被害が発生していると思われます。
そして前回も触れたように、日本の場合、自動車通行の多さが樹冠被覆率の減少に結びついていきます。
日本は、どうしてこのようないびつな人間軽視の自動車大国になったのでしょうか。
先述のように、自動車こそが発展の輝かしいシンボルで、その存在がちやほやされたというのもあるでしょう。
同時に、戦後のアメリカによる要請という問題もありました。
1956年4月、日本政府は日本での最初の高速自動車道の建設に際して、世界銀行に100万ドル以上の融資を求めました。
世界銀行はラルフ・ワトキンスを団長とする調査団を日本に送って調査をさせました。ワトキンス調査団は同年8月報告書を提出して、名神高速道路建設を強く推薦しました。それ以降、日本の自動 車関係者にとってワトキンス報告書は言わばバイブルのような役割を果たし続けました。
その厳しい国土に自動車道路を建設することによって、日本の建設技術が格段に上がったというプラスの側面もあったでしょう。
しかし同時に、この報告書が、自動車道路を無批判に建設し続ける始まりになったことも否めません。
戦後日本の占領の基本政策をつくる委員会がありました。その政策の要となったものが2つありました。
1つは、当時深刻だったアメリカ余剰農産物の処理を日本でできるように、日本の農業の仕組みを作っていったこと。(注1)
そしてもう1つが、自らの利益を度外視して戦争協力に尽くし、特に対日戦争でその効果が大きかったアメリカの自動車産業に日本をマーケットとして差し出すことでした。
これによって、自動車重視(歩行者・住民軽視)の日本の社会構造のもとができたと言われています。(注2)
このように、当たり前になっている風景も、その成り立ちの理解や、外国との比較による相対化によって、実は当たり前どころか特殊な片寄ったものでしかないことが分かってきたりします。
その理解が進むと、ではどのような社会が望まれるかのヴィジョンも深まっていくと思います。
2024年11月30日
(注2)宇沢氏は、車道・歩道未分離の街路に安全な歩道を作ること、そのために道路の幅を両側に4mずつ拡げること、排気ガス騒音など自動車通行にともなう公害現象に歩行者が影響されないように歩道と車道の間に緩衝地帯を設け、並木を植えるなどすること、子どもの遊び場のために自動車の通行を禁止することなどを提案しています。
そのために必要な費用を東京都で24兆円と計算し、それは「自動車の社会的費用」として自動車使用者が負担すべきものとおっしゃっています。
すると当然、自動車保有台数は著しく減少し、利用されなくなる道路が生まれ、歩行者・住民重視の街路と街づくりが可能になるとおっしゃっています。このとき、巨大自動車産業はどのような反応を見せるのでしょう。